ビジネスで論理的思考の重要性が説かれてどのぐらい経つのだろう。
就職活動にも論理的であることが有利に働くらしいし、ロジカルシンキングといえばビジネススキルのひとつとしてカウントされる。
そして世間では論理的思考=理系みたいになっている。以前、文系の学部出身の人から理系は就職に困らないから就職の苦労を知らないと嫌味を言われたことがある。個人的には結構苦労して就職しただけに、ずいぶんびっくりしたし、その分腹も立った。
ところでふと疑問に思うのだが、論理的思考だったら、文系の哲学科みたいな学部の人の方がよっぽど強いと思うのだがどうなんだろう。
その一方でこうも思う。もし哲学科のような議論が会社で行われたら、多分みんな働く意欲を失うのではないかと(哲学科の人すいません…)。
で、私は思うのだが、世の中は別に本当の論理性など必要としていないのではないか。実際、普段出会う人の中で論理的な人と会うことはほとんどない。むしろ論理性より、やる気、元気、お世辞の上手い人の方が多い。
確かにサイエンスは論理的だが、論理的思考はサイエンスだけのものではない。サイエンスが論理性を有するのは、サイエンスが実証主義を採択しているためである。事実、実証主義を採択しないサイエンスも残念ながら存在する。エセ科学、疑似科学と呼ばれるものだ。しかしエセ科学であっても論理性は有している。だからみんな騙される。
論理性は特定の学問のみが有する訳でもなんでもない。思考の一形態である。さらに論理が全てでもない。論理性は合理性をもたらすが、合理性を追求すると経験的ではなくなってしまう(この一文の意味は意味がわからなくても良い。以下で解説していく)。
今回のテーマは理系と論理的思考について思うところをまとめて、整理すること、論理的思考が万能ではないこと、むしろ論理的思考は理系にのみ有する特別なものではないことを明らかにすることである。
理系はなぜ論理的なのか
理系は論理的だと言われる。理系が具体的にどのような学問のことを指すのかは不明瞭だが、科学分野(サイエンス)をここでは理系と指す。
ではサイエンスはなぜに論理的なのか。それはサイエンスは実証主義を採択しているからだ。実証主義とは合理論と経験論を融合した哲学で、科学哲学の根幹をなすものである。
合理論とは論理学と数学のもつ性格(これを哲学の用語で表現するとアプリオリという)のことである。合理論の中では全ての事象は論理的な因果関係を持つ。しかし論理の結果が、必ずしも”事実”とは限らない。これを具体的に説明する有名な話がある。「鉛筆の尖った方を下にして、垂直に立たせることができるか」という話だ。
理論上では、接点と重心が垂直になるよう置けば、鉛筆を垂直に立たせることは可能だ。しかし実際問題として、鉛筆を垂直に立たせることはできない(疑うなら試してみれば良い)。このように論理的に可能であっても、実際問題として不可能であることは多々ある。ちなみにこの”垂直に立たせることはできない”という現実を哲学の分野では経験という。
鉛筆の事例から分かる通り、理論は経験から独立している。つまり理論は経験に影響を与えることができない。その一方で、理論が経験に従わないこと自体が、理論それ自体を否定することはない。つまり鉛筆を立てることはできなくても、理論上は可能ということはできるわけである。
だが、それではこの世界を論理的に表現するというサイエンスの目的を達成することができない。論理が現実世界を表現できなければ、サイエンスという学問そのものが成り立たなくなってしまうからだ。
そのため、サイエンスは実証主義を採択することとなった。こんな書き方をすると、そのような宣言があったように聞こえるかもしれないが、それは本当にある。”ウィーン学団 論理実証主義の起源•現代哲学史への一章”がそのひとつだ。もっともこれは実証主義の発展系である論理実証主義の採択だが、このウィーン学団の提唱がサイエンスに与えた影響は大きい。
この提唱によって、心理学もサイエンスの一分野として認められ、一方で形而上学的理論はサイエンスから淘汰された。
実証主義
では実証主義とはいかようなものか。実証主義とは測定、観察を通じて得られた結果を論理的に解釈するという哲学である。すなわち、実証主義に根ざす限り、どのような理論も経験的に確認されなければならない。
これは理論と事実の不一致があった場合、それをサイエンスとは認めないという考えの表れでもある。だが、それは理論そのもの、つまり論理的思考を否定するものではない。ただし論理を正しいとするためには、結果がついてこなければならないということだ。
理系の学問ではこのことを実験というプロセスによって学習する。すると自然と論理的思考が身につくことになる(もちろん真面目に勉強したことが前提だが)。このような思考体系は確かにビジネスにも役に立ちそうだが、実証主義的な思考回路を誰も説明できないし、そう言われても誰もピンとこない。だから平べったく”論理性があること”を要求し、その結果として”理系”という言葉が世の中に普及しているのだと思う。
だが、間違って欲しくないのは、論理的という表現は誤解の多い言葉だということだ。単に論理が強い人は、事実を直視できない人である可能性が高い。論理と事実の関係性を導くことのできる人が真に”理系な人”だと思う。しかしそのような高いスキルを持っている人間は世の中にあまり存在しない。だから世の中の人が論理的な思考を採用の評価や人材のスキルとして扱うことにはいささかの抵抗がある。